あの日あの場所で起こった事【2014年6月号掲載】

今回も余りにも悲しい歴史が繰り返されてしまいました。韓国の社会は聖水大橋の崩落(*1)、三豊百貨店の倒壊(*2)などの過去の痛ましい出来事から何の教訓も得られないまま、無駄な歳月を過ごしていたみたいです。この国全体にはびこる総体的な脆弱性を、今回の惨事を通じて今一度痛感させられました。このような事件が二度と繰り返されない事を祈るばかりです。  (筆者注 *1 聖水大橋の崩落…1994年10月21日、死者32人負傷者17人。*2 三豊百貨店の倒壊…1995年6月29日、死者502人負傷者937人行方不明者6人)

『その瞬間その場所で、一人一人が各自の立場で正しい選択と行動をしてさえいれば』被害を最小限に留める事ができたのに、という残念さを感じずには居られません。こんな私たちの現実を前に一つの教訓になるのではと思い、別の時代別の場所で起こったとある出来事を、今日は紹介したいと思います。

 

1977年、ニューヨークのマンハッタンにシティコープ・センターという五十九階建てのビルが完成しました。このビルはその当時世界で七番目に高い建物でしたが、それとは別の理由で有名になりました。建物の一階から九階の高さまでがピロティ構造になっていて、四本の太い脚柱が五十九階建ての高層ビルを支える構造だったのです。一般的に建物を支える脚柱は四隅に造るのが常識ですが、この建物の場合はそれぞれの壁面の中央部分に一つずつの脚柱が配置されていました。実はこのような構造になったのには特別な理由がありました。元々この場所はセント・ピーター福音ルーテル教会が所有している土地だったのですが、「元と同じ場所に新しい教会を立ててくれるのならビルの建築に同意する」というのが教会側の出した条件だったのです。土地の一角には教会を元通りに建てなければならなかったので、それぞれの壁面の中央に脚柱を配置するしか方法がありませんでした。この独特な構造デザインを考案したのはプロジェクトの総括構造エンジニアだったウィリアム・ルメジャーという人物でした。

 

シティコープ・センターの全体像と実際の姿(www.wikipedia.org)

ルメジャーは脚柱の配置のせいで不安定になってしまう構造的な弱点を克服する為に、八階ごとにV字型の骨格を持つ特殊な構造を採択しました。しかしこの構造では、高層ビルであるにも関わらず建物の重量が異常な程に軽くなってしまい、風が吹くと建物が大きく揺れてしまうという弱点があったのです。この問題に対して、ルメジャーは建物の傾斜屋根の内部に同調質量ダンパー、すなわち重さ四百トンの錘を浮かべたオイル・タンクを設置することにしました。建物の揺れと反対方向に錘が動くことで風の力を相殺して全体のバランスを常に維持するという妙案を考え出したのです。あまりにも独創的なその構造と問題の解決方法に、当時の人々は大きな讃辞を送りました。

 

さて、建物が完成した翌年の1978年六月。ルメジャーの部下が一本の電話を受けたところから、この世にも数奇な物語は始まります。プリンストン大学で建築を専攻していると自己紹介をしたその女学生は、受話器の向こう側でこう言ったのです。

「シティコープ・センターは強風が吹いたら倒壊すると思うんですが」

彼女は卒業論文を書く為にシティコープ・センターについて研究する過程で、この建物が構造的に斜風(建物の四隅が45度の角度で受ける風)に対して脆弱である事を知ったのでした。彼女は「まさかそんな事が? 専門家が造った建物なのに」と思いながらも、もしかしたらという気持ちで電話を掛けたのでした。普通の建物は四隅の部分が構造的に最も強固で、壁に向かって直角に吹きつける垂直風が建物に最も大きな負荷を与えるものです。しかしこの建物はその特異な構造のせいで常識が通用しなかったのです。

ルメジャーも勿論、垂直風に対しては充分に考慮していましたし、建築許可を得る為に必要な構造強度も当然のように計算していました。しかし斜風は完全な盲点でした。彼は部下から電話の内容を伝え聞き、取り敢えず斜風が建物に与える影響を計算し始めました。そして、その結果は学生が指摘した通りでした。

 

そこでルメジャーは、シティコープ・センターが耐えられる斜風の最大風速を算出してニューヨークの気象データと照らし合わせてみました。その結果、建物を倒壊させ得る規模のハリケーンが、五十五年に一度の頻度でニューヨークに上陸しているという事実を発見したのです。それが今年なのか、五年後なのか、それとも三十年後なのか知るすべはありません。しかし大型ハリケーンのせいで五十五年以内に必ず倒壊してしまう巨大な凶器を、彼はマンハッタンのど真ん中に造ってしまったのです。

しかもこの結果は、あくまでもルメジャーが考案した同調質量ダンパーがきちんと作動している事が条件でした。もしかしたらハリケーンの上陸によって停電が発生する可能性もあります。その場合、同調質量ダンパーは風の力を相殺するのではなく、逆に建物をより一層激しく揺らす方向に作用します。そんな場合を仮定し再計算をしてみると、シティコープ・センターを倒壊させる規模の大型ハリケーンは、十六年に一度の頻度でニューヨークに上陸する、という遥かに絶望的な答えが出てしまいました。

 

ルメジャーは当時「この危機を知っている人物は、地球上に私しか居ない」という事実を痛感したと語っています。科学やエンジニアリングの領域では、特定の専門家だけが『誰も知らない新しい事実や可能性』を事前に知ってしまう場合が多々あり得ます。その瞬間、その専門家はどうすればいいのか? 彼らの行動によって、その後の結果、社会や環境に与える影響は、バタフライ・エフェクトのように大きく変わって来るのです。ルメジャーは、とあるインタビューで「その可能性を知った時、自らの命を絶つ事も考えた」と回想していますが、そのような極端な選択はしませんでした。そして自らの名声に傷が付き、莫大な経済的な損失をこうむる事を心配する代わりに、ルメジャーはただひとえに「自分のミスのせいで生じてしまったこの危機を、どうすれば未然に防ぐ事が出来るだろうか?」だけを考えたのです。

 

彼はこう語ります。

「自分の子供が水に溺れた時、全ての親の行動は明らかです。すぐさま水の中に飛び込んで、死に物狂いで子供を助けようとします。そうしなければ、自分自身を許すことが出来ないからです。この建物に対する私の心情も同じものでした。(中略) そこには倫理的な観点から検討する余地もありませんでした。公共に危害を及ぼす可能性が有るものを造ってしまった場合、専門家としてどうすればいいのか? 答えは一つしかありません」

世界の全てのエンジニアは、ルメジャーがそうだった様に公共の安全を最優先課題と考えた上で、自らが被る事になる不利益を計算する事無く、直ちに本人が取り得る最善の行動を選択しなければなりません。そして問題を解決する為の行動を取るという決心と同じ位に、最善の結果を得る為に『自らの行動をデザインする』という努力が必要なのです。

 

ルメジャーはシティコープ・センターの危機を未然に解決する為、足早に行動を起こしました。七月三十一日、本人が加入していた保険会社と顧問弁護士に協力を要請し、その翌日には建物のオーナー企業であるシティコープの副社長に状況をブリーフィングしました。二日後にはシティコープのCEOとのミーティングの席で補強修理についての全面的な協力の約束を取り付けました。行動を起こしてからたった四日後の八月三日、ルメジャーは補強工事を請負う業者と工事計画について協議していたのです。

 

ルメジャーはこうして建物の構造補強工事をスタートさせると同時に、危機を未然に防ぐ為に数多くの対策を講じていきました。ハリケーンによる停電が発生した場合に備えて、同調質量ダンパーの補助電源を確保しました。ニューヨークの市当局と警察の協力を得てビル周辺10ブロックの緊急避難計画を準備し、もしもの事態に備えて赤十字のボランティア二千五百人を常に待機させました。そして気象情報サービスを提供する三つの企業に依頼をして、二十四時間不眠不休の体制で暴風雨に対するモニタリングを続けたのです。また補強工事の現場では建物の入居者たちが不安がらないようにと、毎日入居者が退勤した後に徹夜の溶接作業を進め、日の出と共に作業を中断して出勤時間前には完全に撤収するという作業を繰り返しました。そんな中、九月一日にはハリケーンがニューヨークの沖合まで接近しましたが上陸はせず、幸いな事に大惨事は起きませんでした。

 

その年の夏が終わりを迎える九月の中旬、シティコープ・センターの構造補強工事は終了しました。工事に投入された正確な費用は公開されていませんが、少なくとも当時の金額で四百万ドル以上ではなかったかと推定されています。しかし補強工事の代金を最終的に決済するこのビルのオーナー企業、シティコープは、ルメジャーが加入していた保険の支払上限額である二百万ドルだけを受け取って、それ以上の費用の補償を要求しませんでした。また、彼が危険を未然に感知して必要な処置をした事で、損害保険の歴史上で最悪の損害を未然に防ぐ事が出来たと、保険会社も事件以降にルメジャーが納入すべき月々の保険料を、逆に引き下げたと伝えられています。

 

エンジニアとして『公共の安全、健康、福祉』を最優先にし、素晴らしい意思決定を下したルメジャーはこう語っています。 

「エンジニアや医者などの専門職に従事している人たちが、絶対に忘れてはならない基本的な原則はただ一つです。『人々を脅威に陥らせないこと』」

 

この出来事はその後十七年もの間、当時の関係者の他には誰も知らないストーリーでした。しかし、あるジャーナリストがパーティーの席でこのエピソードを片耳に挟んだことから状況に変化が起きたのです。そのジャーナリストがルメジャー本人に確認したインタビューを基に1995年『ニューヨーカー』誌に発表したスクープ記事でこのストーリーは紹介され、広く世人の知る所となりました。 

 

世間の人々はシティコープ・センターのエピソードについて語る時、いつもルメジャーという人物の素晴らしい判断と行動にフォーカスを合わせて話を進めます。 けれど、私はこう思うんです。

当時二十一歳だったプリンストン大学の学生ダイアン・ハートレー、彼女が電話を掛けなかったら?  

彼女の電話に応対した部下の社員が「一介の大学生が生意気な」と通話の内容を上司に報告しなかったら?  

ルメジャーが自らの業績を過信して再検証をしなかったり、その事実を隠す事に必死だったりしたら? 

保険会社の担当社員や弁護士が、顧客の利益を保護する為だとうそぶいて、ルメジャーに「事実を隠蔽しよう」と持ち掛けていたら?

シティコープの取締役役員たちが、補強工事をする代わりに秘密裏に資産の売却を決定していたら? 

世界はまるで違う、悲しい歴史を記憶に刻んでいたはずなのです。

 

韓国に住んでいる全ての人々が各自の立場で、このエピソードに登場する全ての人々がそうだった様に、正しい判断と行動をすることが出来る日が来る事を心から祈りたいと思います。そして今、余りにも大きな悲しみを前に虚脱感を感じ、道に迷っている数多くの方々にお願いしたいのです。あの日何気なく掛けた一本の電話で、本人も知らないうちに数多くの生命を救ったダイアン・ハートレーのように、自分自身の良心に忠実な行動が出来る人になって欲しいんです。それだけが、私たちがあの日救う事が出来なかった人たちの為の本当のレクイエムなのではないでしょうか。