台風の日に屋根の上でするシャワー 〈「屋根の家」の話①〉【2015年4月掲載】

【このコラムに関しての注意書き、あるいは自白です。この文章は日本のメディアに紹介されていた或る著名な建築家の記事に感銘を受け、その内容を韓国の施主さんたちに紹介したくなり「韓国語に翻訳、再構成をしたコラム」を2015年の4月号に掲載したもので、そのコラムを再び「日本語に翻訳したもの」です。この文章の現本となった記事の出典を明かすべきですが残念ながら失念しました。この文章に書かれた建築家ご本人、そして記事を書かれた方からの要請があった場合には速やかに本ポスティングを削除させていただきます。 また、当コラムに登場する建築家の方の経歴・役職なども2015年当時のものです。】

 

私は設計を始めるに当たって施主さんにお会いした時、趣味や関心事等、何でもいいから少しでも多くを聞き出したくて熱心に話を聞きます。その人の心の奥底にある「望み事」を引き出して設計に反映させたいという一念からです。

私はこの時、もしかしたら当て推量をしたり建築的にだけ解釈をしたりして、その人の望みとは違うものを考えているのではないかと、いつも警戒心を忘れないようにしています。それは日本の建築家の手塚貴晴氏が「屋根の家」という住宅を設計した当時のエピソードに接して、深く考えさせられた点が二つあったからです。今回のコラムでは、その中の一つをお話ししようと思います。

 

「屋根の家」は2001年に手塚貴晴氏が設計した住宅です。手塚氏は1964年東京生まれでパートナーの手塚由比と手塚建築研究所を運営しており、現在は東京都市大学の教授でもあります。彼は当時、住宅の設計を依頼した施主さん(仮称:Aさん)とのミーティングで、いつものように質問をしました。

「面白い事はなんですか、何をして過ごすのが好きですか?」

ところが返って来た答えは想像を超えていました。

「この屋根の上でご飯を食べるのが好きです。この窓から出て、晩ご飯や昼ご飯を食べるのが好きです」

 

そう言いながらAさんは手塚氏に家族アルバムを差し出しました。そこには幼い二人の娘さんを含めた家族全員が屋根の上で過ごす日常を収めた写真がいっぱいありました。Aさんと奥さんは、どうせ家を建てるのだったら屋根の上でやりたい事は何でも出来る様にしたいと語りました。それで屋根の形は緩やかな傾斜を持つ「片流れ屋根」にする事が簡単に決まりました。Aさんの奥さんは「屋根に上っている時もある程度のプライバシーが確保される」事を望みました。手塚氏はそんな要求に合わせて屋根の上に壁も建てる事にして、食事の為のテーブルと椅子、料理の為のキッチンも追加しました。こんな風にして屋根の上に必要な要素たちは一つ一つ追加され、冬の寒さに備えたストーブ、夏にかいた汗を洗い流せるシャワー設備まで屋根の上に設置する事になったのです。

 

Aさんは元々「屋根の上でバーベキュー・パーティーもしたい」と言っていました。しかし下手すると家全体が火事になってしまう恐れがあるので、それだけは実現する事が難しかったのです。手塚氏は「それは困るから庭でやって下さい」と説得しなければなりませんでした。結局「屋根の上でのバーベキュー」を諦める代わりに、焼きあがったバーベキューを屋根の上の人に渡せるように鴨居の高さを1. 9mに設定しました。加えて手塚氏は、屋根の端に手摺りを設置する事を提案しました。その時Aさんが反論したのです。

 

「屋根の上に手摺りなんてつけないですよね。前の家には手摺りがなかったですよ」

 

「屋根の家」を極めて特別なものにした理由は、「手擦りと階段の有無」と「屋根」という空間の相関関係にあります。この家の屋根には手擦りが無く、屋根に上る為の外部階段もありません。ただ家の中の数ヶ所に、天窓を通じて屋根に上る為のハシゴがあるだけです。もしかして手摺りが存在したならば、それは「屋根」ではなく「屋上」になってしまったでしょう。結局手塚氏は、屋根の上に手摺りがなければならない理由を見つけられませんでした。それで手摺りの無い設計図面で確認申請を進め、その図面のままで修正を求められる事無く、許可が下りたのです。

始めからAさんとその家族が望んでいたのは、使い勝手が良くて気楽な「屋上での日常」ではありませんでした。彼らが望んだのは、元々人が上る事を想定していない、けれど家を建てれば必然的に生まれてしまう「屋根」という空間で行う「逸脱行為」、若しくは「計画された非日常」だったと思うのです。

この住宅は日本の建築関連の月刊誌の中の一つである「新建築住宅特集」に紹介され、大きな波紋を起こしました。「屋根の上でご飯を食べるなんてフィクションだろう、こんな事がある訳がない、そのフィクションをいかにも堂々と日常の事として書く建築家は偽善者だ」等の批判が寄せられました。こんな状況に対して施主さんであるAさんは「新建築住宅特集」に掲載された、とある建築家の評論に対して直接反論する文章を寄稿しました。

「嘘じゃない。フィクションじゃない。我々は屋根の上でご飯を食べているんだ」

施主さんが自分の生き方を熟知していて、その生き方に合わせて家を建てた場合、その結果としての家の姿とその使い勝手は、私たちの想像を超越する事もあります。それなのに私たちは、余りにも狭い視野から判断して批判しているのではないでしょうか? 若しくは建築家が本人のアイデアの限界の中に施主さんの暮らしを閉じ込めて、彼らに足枷をはめてしまっているのではないでしょうか?

そして、ここには建築に関連するメディアの落とし穴が隠されているのではないかと、私は思います。殆ど全ての建築メディアは「新しく建てられた建築物とその建築の過程での意図やエピソード」を紹介しています。しかし住宅を紹介するに当たって、それらと同じぐらい大切なのは施主さんの「所懐」、心に抱く思いなのではないでしょうか? 本人の好みに合わせて家を建てた施主さんが、住みながら感じた日常、使い勝手、満足感、そして後悔といった内容が大切なのだという意味です。五年十年と暮らしながら見て感じた事、その間に講じた増築や改築を通じて良くなった「何か」、もしかするとそんな時間を過ごして来た家と施主さんの話の方が、私たちにもっと大きな教訓を与えてくれるかも知れないと思うのです。

月刊「田園の中のマイホーム」も既に今月でバックナンバーが百九十四冊を数えます。十六年以上の月日の間にこの雑誌に紹介された数多くの住宅、そして誌面には紹介はされなかったより多くの家々の中から、私たちは「隠れた宝石」のような施主さんのストーリーを聞く事が出来るのではないかと思います。そしてそれらのストーリーが私たちに「もっと多様で、もっと新しい考え方」が出来るようなインスピレーションを与えてくれるはずだと期待しています。

 

「屋根の家」の引き渡しが済んでからしばらく経った、台風の吹き荒れる日の事です。Aさんから手塚氏に一本の電話が掛かって来ました。受話器の向こう側では強い風の音と共にAさんが叫んでいました。

「寒い台風の中で熱いシャワーを浴びるのは最高です!!」

「本当に大丈夫ですか? 子供さんとか飛ばされないですか?」

「大丈夫です。浴びているのはわたしですから。ちゃんとTシャツも着ていますから」

 

こうやって格好良く、幸せに生きている施主さんたちのストーリーを私はもっと沢山聞いてみたいと思います。

Light is beautiful 暮らしを照らす灯り【2015年3月号掲載】のあとがき

コラムの本編をポストした時にも注意書きをしましたが、この文章は日本のメディアに紹介されていた或る著名な建築家の記事に感銘を受け(紹介されていた照明家の方の仕事と考え方に)、その内容を基に韓国語の文章に翻訳、再構成をしたものです。そのコラムを再び日本語ヴァージョンに変換しました。もう10年以上前に書いたものなので、出典を憶えていません。この文章に書かれた建築家ご本人、照明家ご本人、そして記事を書かれた方からの要請があった場合には速やかに本ポスティングを削除する事を約束させていただきます。

 

私が角館政英の逸話に感銘を受けた理由の一つは、私が日頃から考えていた疑問についての答えを見つけたような気がしたからでした。

「照明とは人なのです」

「建物が人の為に存在するように、照明もまた人の為に存在する」

「天井から床、壁までが微かに明るくなる程度の最小限の照明を模索」

「『建築物』を照らすのではなく『暮らし』という行為を照らす事に目的がある』

「望む場所にそれなりの理由と意味を持った『灯り』が存在するという事が核心』

 

正直な話、今の日本の一般的な過程で当たり前のように行われている照明計画のベースにあるのは「工場労働者を働かせる為の、手元に影が出来ないようにする照明」という考え方です。産業革命以前の照明は「必要な場所を必要な分だけ照らす」為のものでした。そんな照明の中で人々は眠りに就いてきました。蛍光灯の明るさは人を覚醒させる為に設定されたものだから、家に着いても寛げない照明なんです。睡眠の質を向上させたかったら、家の照明をスタンド照明器具+黄色系のバルブに変えてみてください。生活が変わります。

Light is beautiful 暮らしを照らす灯り【2015年3月号掲載】

【このコラムに関しての注意書き、あるいは自白です。この文章は日本のメディアに紹介されていた或る著名な建築家の記事に感銘を受け(紹介されていた照明家の方の仕事と考え方に)、その内容を韓国の施主さんたちに紹介したくなり「韓国語の文章に翻訳、再構成をしたコラム」を再び「日本語の文章に翻訳したもの」です。また、この文章の現本となった記事の出典を明かすべきですが残念ながら失念しました。この文章に書かれた建築家ご本人、照明家ご本人、そして記事を書かれた方からの要請があった場合には速やかに本ポスティングを削除させていただきます】

 

これは住宅設計の分野において日本では結構有名な建築家の経験談です。彼は本人が設計している住宅の照明計画を提案してもらおうと、とある照明デザイナーに発注する事にしました。彼は本人が設計している住宅の規模を考え、必要とされる照明器具の総額は八十万円程度になるだろうと予測を立てました。でも、この建築家の予測は完全に外れてしまったのです。その照明デザイナーは三万円、韓国の通貨単位で三十万ウォン程度の照明計画を提案したのです。

建築家の予想を裏切り、照明器具の購入費用をたった三万円に収めてしまった照明デザイナーの名前は角館政英(かくだて・まさひで)氏。照明デザイナーというよりは照明の設計者、照明が創り出す風景をデザインする人と言った方が似合う照明家です。彼が提案した「三万円の照明計画」とは照明器具を全部、裸電球で統一するというものでした。想像を超越する程に費用が掛からない提案を聞いて建築家も施主さんも驚きましたが、彼の真意を理解して提案された通りに実行に移したとの事です。

 

「照明とは人なのです」

 

禅問答みたいに聞こえるかもしれませんが、角館氏はこう語り「演出的な性格の照明は、特に住宅という分野では必要が無い」と主張します。建物を綺麗に見せようとする照明は、建築空間の本質、即ち「建物が人の為に存在するように、照明もまた人の為に存在する」という命題を理解していない結果だと言います。彼が設計する照明は決して自ら出しゃばらず、自然で日常的です。彼は照明計画を立案する時、いつも天井から床、壁までが微かに明るくなる程度の最小限の照明を模索し、その結果たどり着いた答えが「裸電球」だと言います。そんな彼に向かって何人かの建築家は「照明がもっと個性的に主張して欲しい」と要求したりもするのですが、反対に彼は「照明が出しゃばりすぎじゃないですか?」と反問するとの事です。ですからきちんと仕事をしたのにも関わらず「結局あなたは何をしたの?」という酷い言葉を聞く事もあったと言います。それでも彼は「照明」というものは演出、即ち「建築物」を照らすのではなく「暮らし」という行為を照らす事に目的があると考えるのです。

 

もう一つ、角館氏が横浜市の元町から街の照明計画を依頼された時のエピソードです。元町の人たちは彼に「明るくして下さい」と依頼をしました。元町の人たちは照明の専門家にお願いしたからどうせ何年も掛かるだろうし、今までも結構な金額を使って来たのでまたお金が掛かるのかなと思っていたそうです。ところが角館氏がすぐ帰ってきたのです。

「できました」

「まだお金払っていないじゃないですか?」

「できたんです」

その言葉を聞いて外に出た元町の人たちは驚くしかありませんでした。彼の言う通り、本当に街角が明るくなっていたのです。

「どうやったんですか、角館さん」

「街灯を消しました」

「なんで街灯を消したのですか?」

「要は人間の眼には絞りがあるのです。目の絞りというのは一番明るい所に合わせてすっと締まってしまう。街灯というのは六千ルクスや七千ルクス。それに対して喫茶店とか三百ルクスくらいしかないでしょ。コンビニだって三千ルクスくらいでやっている。そうすると街灯が点いていると街が真っ暗に見えてしまう。街灯を消すとそれぞれの家の賑わいが見える。街灯っていうのはストーリーが無いんです。だけども、そこに街灯を消すと街の中のそれぞれの瞬きがストーリーを語り始める。だから今までは作られた照明だったのが、実は街の賑わいがそのまま照明になってくる。これによって人が集まって賑やかな感じが出来んですよ」

 

飛行機の窓から見下ろす夜景はとても綺麗です。では何故、私たちは夜景を眺めると美しいと感じるのでしょうか? それは必要な全ての光たちが集積されたものだからです。輝いている明かりには各自それなりの意味があり、街角の「灯り」には人々の暮らしが反映されているのです。その全ての「灯り」を通じてその背後に存在する人々の暮らしと温もりを感じる事で、私たちは「灯り」を美しいと感じるのです。「灯り」即ち照明にはそんな力が有って、そんなストーリーが秘められています。人の暮らしが存在する場所ならば、それが何処であれ何らかの意味を持った光が存在するのです。それらを集めて再構成するだけでも、真の立派な照明計画が創り出されるのだと、角館氏は私たちに教えてくれます。

 

実のところ照明というものは明るいと暗いとか、そんな問題ではありません。望む場所にそれなりの理由と意味を持った「灯り」が存在するという事、それが核心なのです。照明器具自体の美しさや建物を照らす光を美しく飾り立てるのではなく、暮らしの中のどこに、どんな光が必要なのかを悩み続けてこそ、私たちは美しく生きる事が出来るのではないでしょうか? この地球上で人類だけが「灯り」、照明を望み通りに創って配置する才能を授けられました。この才能をもっと活かして、人生を美しく照らしながら生きて行ければいいのに、と思います。

自ら不便さを探す人生【2015年2月号掲載】のあとがき

前回のポスティングから、なんと213日も経ってしまいました。何とも恥ずかしいというか、自分の不甲斐無さが嫌になります。今後は、これ程の空白期が生じないようにしたいと思っています。

最近、線状降水帯による突然の雨に水没した地下駐車場のニュースに接して、考えさせられた『今まで知らなかった不便さ』があります。『電動パーキングブレーキ』です。勿論、最近のクルマにとっては必需品ともいえる最新の速度追従式のクルーズコントロールなどのADASの制御の為には電動パーキングブレーキが必須です。しかし水没して電気系統が死んでしまったら、パーキングブレーキの解除はどうするんでしょうか? ATのトランスミッションの場合、電気系統が死んでも物理スイッチを動かしてロックを解除して『ニュートラル』に入れることが可能だと聞いています。では、電動パーキングブレーキは?

エンジニアリングの観点から言うと、確かに電気というのはいろいろな形態に変化させる事ができる高次元の便利なエネルギーです。しかし、故障した時の「再現性の無さ」と「逃げ道の無さ」は最悪です。機械式の構造(ワイヤー引き・油圧制御・機械式ギア」等で構成された回路は「故障する前に前兆が出て」「壊れたら壊れたまま」です。その症状には可塑性はありません。だから「修理が簡単=壊れた時の対応が簡単」です。しかし電子制御は違います。「前兆なく故障して」「壊れたり治ったり」します。修理屋に持ち込んでも「原因探し」に時間を食います。調子の良い時の事だけを考えて「ドツボった時の事を考えていない」機械は、基本的な原則である「フェイルセーフ」を無視したものではないのでしょうか?

 

(本文から抜粋)

「『こんな機能が有ったらいいでしょ?』と言われて『そうか、この機能が無くて不便だったのか』と思える程度の隙間。それが大切なの。『知らなかった不便さ』を浮き彫りにして『必要不可欠な便利さ』みたいに飾り立て、消費者にお金を使わせる事、それが正確なビジネスモデルなのよ」

(中略)

「便利さの実態なんて、実は『無くてもそれ程困らないもの』かも知れない」

 

だから自分はエアコンがきちんと作動する「ちょっと古いクルマ」が好きです。

自ら不便さを探す人生【2015年2月号掲載】

十年前、私がまだ広告業界の仕事をしていた頃のエピソードです。会議の途中にクライアントの重役が何気なくこんな発言をしました。彼は携帯電話のメーカーから転職して来た人物でした。

「携帯電話の端末って、消費者が『こんな機能が有ったらいいな』と感じる程度の便利さを少しずつ加えて新製品を出すんだよ。だからヒット商品になる。新製品の広告に接しながら消費者は『今まで知らなかった不便さ』を教え込まれる訳でさ。『こんな機能が有ったらいいでしょ?』と言われて『そうか、この機能が無くて不便だったのか』と思える程度の隙間。それが大切なの。『知らなかった不便さ』を浮き彫りにして『必要不可欠な便利さ』みたいに飾り立て、消費者にお金を使わせる事、それが正確なビジネスモデルなのよ」

この逸話は十年も前の話で、前職の業界関係者が語った極めて個人的な意見です。だから私はこの話だけで、特定の業界を批判するつもりはありません。それに考えようによっては、多くの業界が似たようなビジネスモデルなのかも知れません。しかし私はこの時、認めたくないけれど認めなければならない事実を、初めて認識したような気がしました。

 

「便利さの実態なんて、実は『無くてもそれ程困らないもの』かも知れない」

 

例えばこんな話です。生まれた時からスマートフォンを当たり前のものだと考えている最近の子供たちは、大きくなったらこんな事を言うでしょう。

スマートフォンが無かった頃って、どうやって暮らしていたのかな?」

この文章中に、スマートフォンの代わりに自動車、KTX(韓国の新幹線)、電気炊飯器、キムチ専用の冷蔵庫等の他の単語を代入しても、この文章は成立します。そしてこれらの発言は世界中の様々な時代で、その時代を「若者」として生きた私たちの間で、数えきれない程繰り返されて来ました。前述の発言を一方的に批判出来ないのは、人間は便利さを手にした喜びをすぐに忘れ、再び「新しい不便さ」を探し出す存在だからなのです。この属性が、人類の先天的な本質で人類の発展を導いて来た原動力なのか、それとも二十世紀中盤から蔓延した「計画的な陳腐化」がもたらした、後天的な教育の効果なのかは誰にも判りません。しかし、どちらにせよ私たちは、今現在の人生をそうやって生きているのです。

 

だから私は「生活の中で意図的に『不便さ』をデザインしてみたらどうだろうか?」と思うのです。最近の世界は余りにも『便利さ』の恩恵に授かる事に忙しすぎて、人々はそれが当たり前だと思い込んでいます。ならば逆説的に『不便さ』をわざと作り出し、何がこの『便利さ』をもたらしているのか、何が有り難いものなのか、もう一度確認してみるチャンスを創ってみたらどうだろう、と考える様になったのです。

自動車の代わりに自転車を、KTXの代わりに鈍行列車を、電気炊飯器の代わりに圧力釜を選んだからと言って、あなたの人生は大切な何かを失ったりはしません。逆にそんな選択をする事で、新たに『便利さ』と『不便さ』の本当の姿が見え始めるでしょう。そしてその『不便さ』は、小さな喜びと楽しみをあなたにプレゼントしてくれるのではないかと、期待をせずには居られません。

 

それでは建築や家造りに対する私たちの態度はどうでしょう?  当たり前だと、必要だと思い込んで、目を背けている要素は何でしょう? ひょっとしたら、そもそも「全ての空間に名前が必要で、明確な役割が必要だ」という考え方さえも強迫観念ではないか、と疑ってみたくなります。

リビング、寝室、台所、ダイニング等、空間の用途を最初に決めてしまうのが常識的な暮らし方です。しかしトイレ、浴室等の水廻りと火を使う場所だけを決めて置き、それ以外の場所は生活しながら決めていく。あるいは生活をしてみたら、そういう使い方になった、という家があっても良いのではないでしょうか。あまり馴染みの無い生き方ではあっても、有り得ない話ではありません。もしかしたら私たちにとって「余りにも慣れ親しんだ『当たり前な』家についての常識」というものは、慣習に過ぎないのかも知れません。

 

「当たり前だ」という言葉は、実は「感じる事や認識を省略した機械的な反応の繰り返し」という言葉なのかも知れません。「感じ、認識する」という作業を省略して「当たり前だ」と受け止める事が増える程、人生は無味乾燥なものになってしまいます。だから『便利さ』が本当に「楽しさ」として感じられるように、その正反対に位置する「不便さ=違和感」を大切にして欲しいのです。時には考え方と行動のパターンを変えて、今まで考えた事も無かった考え方や新しい行動に挑戦してみて下さい。勿論結果も大切です。ただその過程を経験してみるだけでも、あなたは楽しくなる筈です。最近当たり前のように感じられていた日常が、思ったよりも豊かな姿を見せ始める筈です。「気持ちのいい違和感」こそが、日常を特別なものにしてくれる「何か」の正体なのかも知れません。

空にして逆に得るもの SOLID & VOID 【2015年1月号掲載】のあとがき

このコラムを今になって読み返すと、論理の破綻を感じます。生活の中の変数を「減らす」事から「捨てる」事、そして「空にする」事、この三つの行為を同一視している事に無理があるのでは、という自戒の念を感じます。唯、この時期に自分は、何かに溺れるかの様に息が詰まっていたのだな、と感じました。老子の言葉を最後に繰り返して、あとがきとします。

 

「故有之以為利、無之以為用」

「有るが故に私たちに利するものがあるように、無、即ち空であるがゆえに

 用を為すものがある」  - 老子 道徳経 11章

 

空にして逆に得るもの SOLID & VOID 【2015年1月号掲載】

何時もの事の様に十二月は余りにも慌ただしく過ぎ去り、新年を迎え一月になりました。私たちは今年一年の間に叶えたい夢と希望ついて考え、期待してしまいます。こうやって新年を迎える事が、いつも楽しい理由は何でしょうか? 変わる事が出来るという期待感、トキメキのお陰なんじゃないでしょうか? 私たちを突き動かしている原動力は、未来が昨日よりは良くなるという希望、未来の「より良い自分自身」を見つけられるのではというトキメキ、そんな所から由来しているのではないでしょうか? 万が一今のままの姿から変わる事も出来ず、良くなる事も無い現実だけが繰り返されるならば、果たしてその人生を嬉しい気持ちで受け容れることが出来るでしょうか? 変われる可能性が残されている事がどれだけ大きな祝福なのか、今更のように感じられます。

 

反面、私たちの現実はお先真っ暗と言える程にもどかしく感じます。変化するどころか硬直していると言った方が正しいかも知れません。私たちは元来「自分自身の人生の主人公」のはずで、 主人公じゃなければなりません。けれども人生は望み通りになってはくれません。もしかしたら「自分自身の人生の主人公」だなんて一度も感じられないまま、自らを誰かの人生に瞬間的に登場するエキストラぐらいにしか感じられずに生きているのが、私たちの現住所なのではないでしょうか。

私自身もそうやって硬直して望み通りにならない日々を過ごしていた最中、数か月前に一つの変化が訪れました。何の話をしていたのかは憶えていませんが、妻が私に訊ねました。

「何でいつも、私たちの望み通りに上手くいかないのかしら?」

「それゃ、その事に関連している利害関係者が多いからじゃないかな」

私が何気なく答えた内容はこうでした。ブラックジャックというカードゲームを思い浮かべてみれば理解しやすいと思います。何人かのプレイヤーたちは各自が自らの利益の為に、カードをもう一枚受け取るのか、受け取らないのかを判断します。そしてその決定は、次のプレイヤーが受け取るカードをまるで違うものにしてしまう変数になるのです。そのゲームの流れが自分の思い通りになる確率は殆どありません。これこそ、私たちが日常生活の中で体験している「上手くいかない」状況と同じ理屈だったのです。私はこの会話から私の生活にも応用できる一つのアイデアを見つけました。

「変数が多すぎる事が問題なら、その変数を減らせばいいんじゃないだろうか?」

変数を減らす方法としては、利害関係者の数を減らす事が早くて直接的な方法です。でも、自分の人生と繋がりのある利害関係者を減らすのはそんなに簡単ではないし、私が望むからといって整理できる訳でもありません。

 

しかし自分の所持品を整理する事なら私の一存ですから、容易に実践することが出来ます。身の回りにある物を捨てて整理したら、果たしてどんな変化が起こるだろうかと想像を重ねていた頃、丁度大掃除をする機会が訪れました。私は実験がてら、先ずは私を取り巻いている物質的な環境から変えてみる事にしました。その日の私の目標はとっても単純で簡単なものでした。

「できるだけ捨てよう、可能な限り沢山整理しよう、そして空にしよう」

そんな作業を通じて私が目にしたのは「もしかしたら必要な事もあるかも?」と捨てられなかった物たち、最後に着たのが何時だったのか憶えてもいない服、そしてまともに使う機会も無いままいつしか記憶から消えていた衝動買いの痕跡、そんな沢山の『がらくたの山』でした。そんな物たちを整理しながら、最も衝撃的だったのは「そうやって捨て去っても何の問題も無い物たちを大事に抱え込んで、今まで必要な物だと信じて生きて来た」という事実でした。私の人生にのしかかっていた脂肪の塊を捨て去った様な気がして気持ちがすっきりする一方で、私は今までそんな物たちに囲まれて、どれ程無駄な人生を過ごして来たのか目の当たりにした様な気がしました。

 

家を建てる時、人々は大きな期待と共にできるだけ多くのものを詰め込もうとします。しかしそれは、もしかしたら自らを不便にする落とし穴で、間違った家造りへの近道なのではないでしょうか? 入居後に何も変更することが出来ず、追加することも出来ないとしたら、その家は果たして「暮らしている人の胸をときめかせる家」だと言えるでしょうか? 今まで出来るだけ多くを詰め込もうと努力して生きて来たのに、ある日振り返ってみたら大掃除の時に捨てる『がらくたの山』に変わっているのではないか? もしかしたら私たちは、人生も、家も、全てをいっぱいに満たさなければならないという強迫観念に囚われて生きて来たのではないか? 私はそんな懸念と心配を禁じ得ません。

 

「鑿戶墉以為室、当其無、有室之用。故有之以為利、無之以為用」

「扉や窓を穿つことで家屋は生まれ、

その内部に空間が有ることで家屋として用を為す。

有るが故に私たちに利するものがあるように、

無、即ち空であるがゆえに用を為すものがある。

- 老子 道徳経 11章

 

この一節を読んで私たちは当然の事のように「そりゃ、扉や窓を穿った壁や屋根を造れば家屋が誕生するだろう」と解釈します。しかし真実は全く違うのです。老子にとって「家=建築」は、誕生の瞬間から存在する物体(有)を指すのではなく、その物体によって取り囲まれた何も無い空間(無)を意味するものなのです。老子は家の本質とはその実体にあるのではなく、その中に生まれて来る空間にあると、私たちに伝えているのです。今まで私たちは家の本質がどこに有るのかも知らないまま、家の影だけを一生懸命に追いかけて、大金を掛けて建てて来たのかも知れません。

 

私たちは今年も違わず、トキメキと共に何かが変わる事を願いながら新年を迎えました。そんな私たちにとって、今最も必要なのは「空にする」ことではないでしょうか? 既に一杯になっていたら、そこには他の何かが入り込む隙間も有りません。隙間が無ければ、私たちは新しい何かを受け容れる余裕さえも持てません。だから万が一にも、既に何かによって私たちの暮らしが一杯になっているとしたら、それは余りにも大きな不幸なのです。だから私はあなたにお勧めするのです。人生にもっと多くのものを受け容れる為にも、今年は一度きちんと空にしてみてはどうですかと。