建築が造ってしまった隣人のいない暮らし【2014年10月号掲載】のあとがき

このコラムを読んでも日本に住んでいる方には実感が湧かないと思います。日本の感覚では「そんなに挨拶をしない訳無いじゃない」と思うでしょう。でも本当なんです。向かいの部屋の住人と偶然顔を合わせても、横目でチラッと見て終わり。それが韓国の流儀です。不必要に他人と関りを持つのが怖いご時世ではありますが、そんな社会で長い間過ごして来ました。

そんな経験を持っている私からすると、日本の社会はまだまだ捨てたもんじゃありません。目を合わせて挨拶をする機会が多い社会です。同じマンションの人たち、横断歩道を渡って行く人たち(特に小中学生)、道を譲ってあげたり、譲ってあげたりした相手の車のドライバーさんたち、みんなが挨拶してくれます。それはとても素敵な社会だと思います。以前佐賀県唐津に旅行した時、妻と一緒に唐津城の近所を歩いていた時の事です。その地域の高校生と思われる学生さんたちが、一人の例外もなく「こんにちは~」って声を出して挨拶をしてくれたんです。(それぞれ別のグループが5回ほど) 本当に気持ちの良い体験でした。

それから「社会的な関係が音を別のものにする」という言葉。別の言葉に言い換えると「あなたの認識で音は違って聞こえる」という事です。だから訳の分からない騒音も、何の音かな? どうしてこんな音がするのかな?って事を少し理解してみると、ちょっと「五月蠅くなく」聞こえる筈です。

このコラムで「中間領域」という単語を使っていますが、建築の世界で一般的に使用する意味よりは遥かに広い意味で使っています。一般的には家の内と外の「中間領域」という意味で使用する概念です。今回は意図的に使っているので、理解の程をお願いします。

(何故か、このあとがきをコラムをポストしてから73日後に書いています)