住宅は建築か 【2014年4月号掲載】のあとがき

先ずは参考までに建築家キム・スグンさんについて。ソウルオリンピックのメインスタジアムを設計した方です。

それはそうと、私にこのエッセイを書かせたのはこの一言でした。

「建築家が意図する空間を実現する設計思想の純粋な表現の場」

私はこんな事言ってる建築家が今も存在するという事実に先ず驚きました。そしてこのような発言(表現?)が何の論争も引き起こさずスルーされたという事実を通じて、いわゆる建築家の界隈では『設計思想の純粋な表現の場』という妄言が未だに信奉されている、という証拠のように思えました。『設計思想の純粋な表現の場』として利用しろと、顧客が建築家にチャンスを与えてくれる訳ではありません。

住宅は建築か 【2014年4月号掲載】

日本の建築専門月刊誌である『新建築/住宅特集』に過去のとあるエピソードが紹介されていました。建築家が集まった小さなパーティーでの出来事です。韓国の有名な建築家キム・スグンさんの東京大学大学院の同期生であり友人でもある磯崎新さんという大先輩の建築家が、こんな話題を投げ掛けたといいます。

「住宅は建築か?」

磯崎さんよりも先輩で住宅の設計をメインに活動してきた篠原一男さんは、この言葉を聞くと怒ってパーティーの席を立ってしまい、伊藤豊雄さん等その場に残された後輩の建築家たちは論争を繰り広げたというエピソードでした。

後日この出来事について伝え聞いた、とある建築家が自分なりの解釈を加えた文章を雑誌に寄稿しました。

「2000年以前には、それでも公共建築のコンペが社会に新しい建築の姿を提示する希望の場だった。しかしその後の状況は変わってしまい、現在の公共建築のコンペは理解しやすい提案で、どうやって市民の同意を得るのかを競争する場へと変貌してしまった。こんな時代においては、もしかしたら住宅だけが特定の顧客の合意を得るという仮定の下で、建築家が意図する空間を実現する設計思想の純粋な表現の場になっているのかもしれない。しかし特定の顧客とその家族だけにフォーカスを合わせた排他的な空間、あるいは余りにも特殊な解は、果たして時代を超えて皆が共有できる建築として認識されるのだろうか?」

建築家はこの文章の中で『排他的な空間』だとか『余りにも特殊な解』という表現で、住宅設計に対する警鐘を鳴らしてはいますが、私はこの文章を読みながら頭の片隅で違和感を感じないではいられませんでした。住宅だけが『特定の顧客の合意』さえ得ることが出来れば『設計思想の純粋な表現の場』となり得るという告白は、意図せずに自白した建築家たちの傲慢不遜さであり時代錯誤的な発想ではないのでしょうか? この発言を目にして、果たして韓国の建築家の共同意識、時代精神の現在位置は一体どこなのだろうか、と考えてしまいました。

 

一般的に『専門職』といえば弁護士や医師を思い浮かべます。彼らは顧客の持つ有・無形の資産、すなわち顧客の健康や権利、財産などを守る為に専門知識を発揮し、その役割に対する努力の代価を受け取ります。それでは建築家はどうでしょうか? 『士』という漢字が後ろに付く『建築士』は専門職だけれども『家』という漢字が後ろに付く『建築家』は画家や小説家、音楽家みたいに純粋な芸術を追求する『アーティスト』なのでしょうか?

 

住宅の設計は、作業プロセスと取引の形態を見ればオーダーメイドだと言えます。そのブランドもしくはデザイナーのデザイン哲学に魅力を感じた顧客が、自ら進んでチョイスするからです。しかしオーダーメイドの場合にも『顧客の好みと要求事項』はとても大切で最優先課題であって、デザイナーは顧客が望むところをどのように現実化するのかに集中することになります。だから『デザイン哲学の純粋な表現の場』として利用しろと顧客がチャンスを与えてくれた訳では、絶対にないんです。このような世の中の道理を超越して建築家だけが特別な存在として居られる理由がどこに有るのか、建築家という生業を持った人々は自問すべきではないでしょうか。

 

ちなみに私は当然のことのように住宅も建築だと思います。純粋に『暮らしの為の器』という使い道に忠実に造らなければならない建築だと思います。そして、それぞれの施主さんが夢見る『暮らしの風景』には色々な形態が存在する為、結果的に様々な姿の住宅が誕生することになります。ところが、このように個別的にはまるで社会性を持たないそれぞれの住宅も、時代や気候・地域・民族などのセグメント別に分類してみれば一定の特徴を持っているんです。こういった特徴が形成されるしかない理由は簡単明瞭なんです。限られた財貨と実現可能な技術を動員し、その時点で本人が暮らす為に『最善だと信じる家』を建てようとする施主さんの思いはいつの世も同じだからです。こんな切実な思いの前では、建築家の思想や個人的な欲なんてものは大した意味を持たないのです。

 

設計者は施主さんにとって『信頼のおける助言者』でならなければなりません。施主さんの希望をよく聞き、該当する敷地と周りの環境の特性を把握して、限られた条件の中で施主さんを満足させられる最善の配置、動線計画、立面及び平面の計画を提案しなければなりません。また同じ結果を得る為ならば、より合理的で安上がりな方法、同じ費用を掛けるならより耐久性がある方法を選択できるよう助言しなければなりません。

もし施主さんがそのような助言を聞き、検討を重ねた上で『それでも、こうしたいんです』と決定を下したら、それが答えなんです。施主さんは本人の財産権を行使する為に自分自身が決定を下さなければならないし、今後発生する結果に対する責任も同時に自分自身が負わなければなりません。

 

しかし当然のことですが、設計者は助言者であって手下ではありません。施主さんにブレーキを掛けなければならない時もあります。劣悪な構造強度などによる生命の危険、特定の資材の間違った使用による健康への悪影響、あるいは装備などの安全性について問題があると予想される場合には、積極的に異議を唱えなければなりません。そして特定の集団や民族に対する差別的なシンボルを使おうとする等、他者に心理的な屈辱感や嫌悪感を与える可能性が高いデザインについては、施主さんがどんなに望んでいたとしても「考え直して下さい」と促すのが職業倫理の面から正しい態度です。どんなに施主さんが『とにかく安く、大体で良いから』と強調してもHビームで支えなければならない構造物をC型鋼材に置き換えては駄目ですし、どんなに施主さんが『カッコよくてシンプルに』と要求しても、危険な程に細い柱のせいで建物が崩落しする危険性があるのなら、そんな建物を設計してはいけない事は自明の理ではないでしょうか。また施主さんがどこかで聞きつけた情報をもとに「ウレタン断熱材で内断熱をしたい」と望んでも、火災の時に発生する有毒ガスの危険性を警告して外断熱工法に変更するなり、他の断熱材を進めるのが妥当なのです。

 

しかしとある建築家は、楕円形の露出コンクリート造の住宅を設計しながら内断熱でウレタンの断熱を使用していたりします。火災発生時の有毒ガスによる窒息死の危険性よりも『設計思想の純粋な表現』がより大切だったのでしょうか? こんな事例がいまだ存在している事実を私は理解することが出来ません。もしも建築家が自らの意図する空間を実現できる『設計思想の純粋な表現の場』を得たいのならば、方法は一つ残されています。自らが施主となって、建築家の自宅を立て続ければ良いのです。世界の大多数の大先輩の建築家たちがそうやって生きてきた様に『設計思想の純粋な表現の場』を得るにはそれなりの代償が伴うものなのです。

隠された真実を探す道程 【2014年3月号掲載】のあとがき

洋の東西を問わず、世界中には自分たちが売りたいものを売る為のそれらしい嘘、エセ科学みたいなもの、競争に勝つ為の攻撃的なセールストークが蔓延しています。そしてそのような嘘、エセ科学、攻撃的なセールストークを私たちはいつの間にか信じ込んでいます。このコラムを通じて私は「なす術も無く被害者でなければならないのか? 」と問い掛けました。

実は嘘を識別する為のいい方法があります。自分自身でファクトチェックをする為の最高の手引書、それは、中学校の科学の教科書です。熱伝導率と熱容量、輻射・伝導・対流、気体・液体・個体、浸透圧などについての「真実」がそこには記されています。あなたがもし、教科書に書かれている内容と相容れない説明を業者から受けたなら、それは「嘘」である可能性が大きいんです。

それはそうと、冬は-20℃、夏は40℃という温度を考慮しなければならない国で設計しながら感じたのは『住み心地の重要性』でした。そして『住み心地』には『室内の温度環境の管理』というポイントが直結しています。結局家造りなんて『住みやすい家を適材適所でどうやって造ろうか』っていうのが原点じゃないでしょうか?

 

隠された真実を探す道程 【2014年3月号掲載】

ある日、施主さんと一緒に黄土大理石(黄土石の俗称:薄く板状に加工して床材等に使用)を取り扱っている業者を訪問した時のことです。その会社の社長が、

「黄土大理石の吸湿性をお見せしましょう」

と言って、サンプルの黄土石に噴霧器で水を吹き付けました。水滴は当然のことのようにサンプルの黄土石に染み込んでいきました。すると今度は、

「黄土大理石だけから遠赤外線が放出されるんです」

と言いながら横に置いてあったヒスイ(翡翠)の塊りと一緒に電子レンジに入れて、同じ時間だけ加熱しました。その瞬間、私は思ったんです。

(こうやって間違った常識が作り上げられていくんだ…)

 

このパフォーマンスの結果は目に見えています。ヒスイの温度はそのままだけれども、黄土大理石は温められる。このトリックの種は、水分の含有量と加熱方法に隠されています。電子レンジという装置は、その物体に含まれている水分自体の分子の活動を促進させて加熱する調理器具です。だから乾燥した状態の結晶体であるヒスイは加熱されるはずが無くて、噴霧器で水分を含ませた黄土大理石は当然加熱されます。この実験は遠赤外線の放出量とは何の関係も無い、ねつ造されたパフォーマンスに過ぎないんです。

 

このエピソードのように建築業界でも、ねじ曲げられねつ造されたストーリーが、まるで常識のように伝播されているケースが存在しています。その代表的な例が『実験用のマウスを通じて確認されたコンクリートが人体に与える悪影響』というストーリーではないでしょうか? その内容はこうです。

 

『1987年静岡大学で、木と鉄、コンクリートで作られた三つの箱に実験用のマウスをそれぞれ入れて飼育実験をしたところ、生後すぐのマウスたちの生存率は木製の箱の場合は約85%、鉄製の箱では約41%、コンクリートの箱では約7%でした』

そして殆どの場合次のような内容が続きます。

『コンクリート造の住宅がどれだけ身体によくないのかっていう事です。家を建てるなら、やっぱり木造住宅が最高なんですよ』

何故こんな風に断言できるのかと言うと、日本で見て来た大勢の木造住宅関連の業者さんたちが何度もこの話を繰り返して来たからです。彼らは今も新規の顧客を前に白々しいシナリオを繰り返しているんです。 

 

しかし、真実に少しでも近付いてみましょう。実際に行われた実験の目的とその全体像は殆ど知られもしないまま、その一部分だけが抜粋されて広く知られていますが、生存率についての真実はこうです。

広く知られている結果は『平均気温25℃』という条件で実施された実験だけのもので、『平均気温20℃』という条件下では、殆ど全ての生後すぐのマウスたちは死んでしまいました。『平均気温30℃』という条件下では、殆ど全ての生後すぐのマウスは生き残りました。また箱の材質の違いによる発育状態の『意味のある差』は見つけられませんでした。この実験を行った研究者が下した結論は次の通りです。

「動物の体と材質との接触面での熱損失の差が動物の熱代謝に大きな影響を及ぼしたものと思われる」

この実験に関した論文全体を日本語の原本で読んでみましたが、そこにはコンクリートの『毒性』だとか『有害性』といった単語は、ただの一回も出て来ません。ただ、この実験の資金提供者は静岡県の木材協同組合連合会でした。彼らにとっては実験全体の結果よりも『木材85%、鉄41%、コンクリート7%』という生存率の差だけが重要だったのでしょうか?

 

そんな企て、あるいは情報操作をもとにして書かれた本が、韓国語に翻訳されて出版された『コンクリートの逆襲(原題:コンクリート住宅は9年早死にする)』という本です。著者の船瀬俊介氏が提示している解決策は、あまりにもあっけなく簡単明瞭です。この著者はインテリアの仕上げを木材のような環境にやさしい資材に変更し、露出したコンクリートが人体に直接触れないよう簡単な処置をする事だけでも、コンクリートの短所の大部分を克服することが出来ると言います。

でも、考えてみて下さい。世の中に存在する数多くのコンクリート造の住宅の中で人体にコンクリートが直接触れる部分が何パーセント有るというのでしょうか? 住んでいる人たちがコンクリートの構造体に直接寝転がって睡眠をとり、直接座りこんで食事を摂るというのでしょうか? このような根本的な論理の矛盾さえも考慮せず『多数のマウスが生き残った木材は善で、多数が死んだコンクリートは悪』といった善悪の二元論が、まるで常識みたいに再生産されているのです。

 

熱反射断熱材(熱反射遮熱材の韓国での俗称)についてのストーリーも似たようなものです。熱反射遮熱材を製造・販売する人たちは、酷い場合こんな説明をして販促活動をしています。 

「住宅に加えられる熱負荷の中の輻射熱が70%なんだから、これを防ぐことが出来なければ断熱が30%しかされていないのと同じなんです」

住宅の屋根と外壁に加えられる熱負荷の中で、輻射熱が相当量を占めているのは事実です。しかし『体積断熱材(EPS・XPS・グラスウール等)では、その輻射熱を全く防ぐことが出来ない』と言うのは事実ではありません。断熱材の外面に到達した輻射熱が結局は伝導熱に変換されるので、厳密にいえば体積断熱材は輻射、対流、伝導の全ての熱に対して効果があります。

私は熱反射遮熱材の存在自体を否定するわけではありません。上記のように、住宅に加えられる熱負荷の70%が輻射熱で、きちんと施工され熱反射遮熱材の反射率が50%だとすれば、それは住宅が負わなければならない熱負荷全体の35%を減らしてくれる効果があるとも言えます。しかし熱反射遮熱材が体積断熱材の代わりになる、魔法の杖では絶対にないと言いたいのです。

 

今この瞬間も数多くの施主さん予備軍の方たちが書籍やSNS、ブログなどを通じて情報を集めようと必死になっています。しかし、そのあふれている情報が本当に真実なのか、ねつ造されたフェイクニュースなのか、誰も教えてはくれません。その上、自分自身がねつ造された情報の一次被害者であることさえも知らないまま第三者にその情報を再発信しているのが、私たちが直面している現実です。ならば私たちは、なす術も無くいつまでも被害者でなければならないのでしょうか? 真実を照らし、私たちが進むべき方向を示してくれる灯台みたいな原則、もしくは噓発見器みたいに嘘をはじき出す事ができる指針みたいなものは無いのでしょうか?

私はあなたに言いたいんです。世の中に溢れている数多くの情報の中から価値のある情報を見分ける為には、先ずは自分自身で真偽のほどを分析してみようという努力だけでも始めなければならないんです。親鳥が運んできたエサをただ飲み込んでいるだけでは、事態は何も変わりません。今、私はあなたに訊ねたいのです。

「あなたがこれまで信じて来た常識は、果たして『真実』でしょうか?」

お隣さんに恵まれる方法 プラス? マイナス? ゼロ? 【2014年2月号掲載】のあとがき

この「お隣さんに恵まれる方法 プラス? マイナス? ゼロ?」というコラムですが、簡単に言えば「家造りの黄金律」について書いたものです。「何事でも人々からして欲しいと望む事は、人々にもその通りにせよ」が黄金律、「何事でも人々からして欲しくない事は、人々にもするな」が白銀律です。この二つのルールは其々が新約聖書旧約聖書に出てきます。黄金律についてのコラムではありますが、本文中に家造りの黄金律は出て来ません。本文の途中に出て来た「自分たちがしたいことって、当然お隣さんもしたいことだよね?」「自分たちがされたくないことって、お隣さんたちもされたくないことでしょ?」というのは、家造りの黄金律にたどり着くまでのヒントです。

本文中にも書きましたが、韓国では『ゼロ・サム』のルールで設計された建物を沢山見かけます。(日本でも少なからず見かけますが…) 本当にその家一軒「だけ」が建っている状態「だけ」を想像して設計された住宅なんですが、その原因は施主さんだけでなく建築家にもあるんじゃないかと思います。採光、風通しと換気等を考慮した開口部(窓など)の配置とサイズ、形は、隣家が建てられた時を想定して設計をしなければいけません。そんな配慮がなされていない為に「開かずの二階の窓」「開かずのカーテン」「開かずのリビング掃き出し窓」なんてものが生まれてしまいます。

もしかしたら建築家の欲が先走ってしまって、施主さんの要求事項に対する配慮が二の次になってしまっているのかも知れません。今になって思うことなどですが、施主さんの為のアドバイスも大切ですが、建築家や施工業者がこの黄金律、白銀律を肝に銘じることもたいせつなんじゃないかと思います。

お隣さんに恵まれる方法 プラス? マイナス? ゼロ? 【2014年2月号掲載】

お隣さんに恵まれる方法 

プラス? マイナス? ゼロ?

 

先月号のコラムで私は家造りを考えている読者の皆さんに、計画に先立って『想像すること』をお勧めしました。読者の一部の方は想像することを始めたばかりで、まだ頭の中の整理がついていない方もいるでしょう。その一方で悩み続けていたタイミングで『想像すること』の力を借り、家造りの輪郭を掴むきっかけになった方もいるのではないでしょうか。そこで今回のコラムではその想像が完成形になる前に施主さんが必ず知っておくべき、一つの小さなルールについてお話ししようと思います。

 

一般的には聞き慣れない話題かも知れませんが、当事者間の利害関係がどのように衝突するのかに従って、ゲームもしくは取り引きのパターンを区分する分類方法があります。それはゼロ・サムプラス・サム、マイナス・サムです。(サムとは『合計』という意味)

 

ゼロ・サム(Zero sum)は、当事者間の利害得失の合計がゼロになる場合です。誰かが利益を得た時、その反面で他の誰かはそれだけの損失をこうむるので合計はいつもゼロとなります。不幸な事に、私たちが生きているこの世の中の殆どすべての取り引きはゼロ・サムのパターンに属します。

プラス・サム(Plus sum)とは、当事者間の利害得失の合計が結果的にプラス(利益)となる場合です。プラス・サムでは、誰かの利益が必ず他の誰かの損失につながる訳ではありません。相手と協力する事でお互いの利益がより増加する可能性があるので、それぞれの利益を考えながらも同時に助け合う事が大切なポイントになります。いわゆる『ウィンウィン・ゲーム』が、この類です。

最後にマイナス・サム(Minus sum)です。当事者間の利害得失の合計が結果的にマイナス(損失)となる場合を言います。お互いに自らの利益だけを追いかけ結局双方が損をする、『勝者は存在せず敗者だけが存在する』不毛な戦いです。このようなパターンはできるだけ避けて通るのが常識です。

 

この三つのパターンの違いをきちんと理解した状態で、自分自身に質問を投げ掛けてみて下さい。

「もし自分のこれからの一生の間に起こる全ての出来事に対して、その関係のパターンを選択する権利があるならば、自分はどのパターンを選択するべきか?」

 

賢明なあなたのチョイスは百パーセント、プラス・サムのはずです。それだけが、絶対に損失を出さない、弱者や敗者にならない方法なのです。私がお話したかった小さなルールというのが、これなんです。あなたが思い浮かべる暮らしの風景、そしてその暮らしを包み込む『器』を創り上げていく設計という作業の過程で、絶対に抜け落ちてはいけない大切なルールが『プラス・サム』なのです。

 

プラス・サムのルールで、というと難しく聞こえるかも知れませんが、心配する必要はありません。実践する方法はとても簡単なんです。あなたの頭の中で今まで繰り広げられて来た想像の舞台では『自分の家族』だけが登場人物で主人公だったのを、これからは登場人物の中に『お隣さん』を追加するだけで良いのです。

 

「どんな近所付き合いをすれば、仲良くなれるかな?」

「自分たちがしたいことって、当然お隣さんもしたいことだよね?」

「自分たちがされたくないことって、お隣さんたちもされたくないことでしょ?」

こんな事を想像しながら設計を進めれば、あなたはプラス・サムのルールを守って、お隣さんとの良い関係を維持した幸せな家造りに成功するはずです。

 

新しく造成された一戸建ての住宅地を通りかかると『ゼロ・サム』のルールで設計された建物を沢山見かけます。自分の家だけがポツンと一軒家のように建っている状態だけを考えて設計した住宅は、隣の家が建てられた瞬間にその長所の殆どを失ってしまいます。近所から悪口を言われる覚悟で建てたかの様にそびえ立ち、違和感を醸し出している家も沢山あります。皆がその瞬間だけの満足感に目を奪われ、自分のことだけ考えて家を建てているんです。

そして結局『マイナス・サム』の悪循環に陥って、お互いの家を「見るだけで吐き気がする」となじり合いギスギスした関係を続けるしかない家々を眺めていると、とても悲しくなってきます。誰かに勝とうとした訳でも、お隣さんに被害を与えようとした訳でもなかったのに。もしかしたらそれらの家の持ち主たちは、自分がマイナス・サムの世界に生きているという事さえ知らないのかもしれない。そんな人たちに『一戸建てでの暮らし』について訊ねたら、多分こんな返事が返って来るんじゃないかと思います。

「一戸建てで幸せに暮らしたいなら、お隣さんに恵まれないとね」

この言葉の半分は正しく、半分は間違っています。自然発生的にお隣さんに恵まれる確率なんて殆ど有りません。幸せな家造りの為には、お隣さんに恵まれなければならないのではなく、お隣さんと『恵まれた関係』を作り上げなきゃならないんです。その為には自分が先ず『恵まれたお隣さん』になろうと心に決めて行動しなきゃいけないんです。

 

以前、郊外のある住宅地で同時に四棟の住宅を設計したことがありました。一年後その時の施主さんの中の一人の紹介で、隣接している二つの敷地の建物の設計を再び引き受ける事になったんです。新しい施主さんとの打ち合わせを終えて、以前の施主さんのお宅を挨拶がてら訪問した時の事でした。

 

「先生、お隣さんはどうやって建てたいって言ってます? あっちの建物に塞がれてせっかくの景色が見られなくなるんじゃないかと心配になっちゃって」

施主さんたちの悩みの種は、いつでもどこでも同じなんです。

「あれ? 憶えてませんか? このお宅を設計する時に説明したじゃないですか。

今後あの敷地に家が建つ場合、道路側に最大限に寄せてもこの位置まで。だからお宅をこうやって配置すれば未来永劫お互いに心配する必要ないって、そこまで考えて決めたじゃないですか」

「あれ? そうだっけ? じゃあ、もう心配しなくてもいいんだ? ハハハ」

 

あなたに訊ねましょう。

あなたはこれからどのパターンで暮らしたいのですか?

プラス? マイナス? ゼロ?

IMAGINE 【2014年1月号掲載】のあとがき

あとがきを何故書いているかと云うと…幾つかの理由が有ります。

先ずは外国の読者、外国のメディアの為に書いたコラムですから、その国の現状を想定して書いた文章な訳です。単純に日本語に翻訳された文章だけでは「何のこと?」「意味不明なんだけど」という場合も発生し得ると思います。だから、コラムを書いた背景についての補足説明や弁明等が必要かと思い、あとがきを書くことにしました。

 

この「IMAGINE」というコラムについては補足説明はそれ程必要ではないと思います。それは日本の施主さんも同じ様な雰囲気じゃないかと思うからです。インターネットで検索すれば、世界中の素敵な家の写真や平面図などが出てきます。そんな資料を沢山スクラップして夢を膨らませている人が殆どじゃないかと思います。そんな施主さんたちに言いたいんです。「IMAGINE、想像してみて下さい」と。

今あなたがスクラップしている写真のイメージを組み合わせても「素敵な家」はできません。構造的に一つの構造物にする事さえ不可能な場合が殆どで、たとえ構造的には可能であっても断熱性能が最低水準だったり、あなたが考えている建築予定地の周辺の環境を考えた場合には日常生活に大きな支障があったりとで、それ程役に立たないんです。建築家にしてみれば施主さんの好みやスタイルを把握する事はできますけど。

 

家を考える時に「器」である家の形から考えても上手く行きません。その中で、自分が、自分の家族が何をしたいのか? そこから始めると思ったより簡単なんです。

何はさてより、想像力と構成力だと思います。

 

それから裏話を一つ。このコラムは「IMAGINE」と云うタイトルを先に決めて書きました。雑誌媒体の場合、発刊日から逆算して原稿の締め切り日が指定されます。書く人間もその締め切り日から逆算して原稿を書き始める訳です。1月号の原稿ですからコラムのネタを何にしようかと悩んでいた日にちが、12月8日だったのです。