隣人と共存する生活の為の幾つかの方法【2014年11月号掲載】

最近メディアでは、隣人と共存しようとする家造りの新しい動きを積極的に報道しています。数日前には「とある団体が協同組合を結成し、古い戸建て住宅を購入してシェアハウスとして運営する」というニュースも耳にしました。私はこの話を聞き、心から応援する気持ちと同時に少し心配になりました。それは、もしかしたら既存の戸建て住宅という『器』が、夢を実現にあたって障害物になったり、制限となったりする、まるでサイズの合わない服の様に感じられはしないかという憂慮でした。「新しい酒は新しい革袋に盛れ」と言います。今まで私たちを支配してきた暮らし方から脱皮して隣人と共存して暮らしたいのならば、もう少し「新しい家造りの方法」についても検討してみる必要があるのではないでしょうか。そこで少しでも参考になればという気持ちで「コーポラティブ・ハウス(cooperative house)」と「コレクティブ・ハウス(collective house)」という隣人と共存する暮らし方について紹介しようと思います。

 

コーポラティブ・ハウスとは、一言でいうと協同組合住宅です。施主さんたちが共同で組合を結成し、建設予定地の取得や設計の段階から自分たちで決めながら、共同で造り上げていく住居のことを指します。北ヨーロッパや北米地域では比較的広く普及していて、ノルウェーでは全国の住宅の15パーセント、首都のオスロでは住宅の40パーセント、450万人の人口がこのコーポラティブ・ハウス形式で建てられた住居に住んでいると言います。またドイツでは650万戸の住宅に1500万人の人口がコーポラティブ・ハウスに住んでいて、その比率は住宅全体の17パーセント、マンションのような共同住宅の30パーセントを占めています。日本でも大都市圏を中心にコーポラティブ・ハウスとして建てられた住居が以前から存在していました。日本の場合では住宅を建てる土地を購入せずに土地の所有者と30年から50年程度の長期の土地賃貸契約を結ぶことで必要な初期費用を最少化しようとする『つくば方式』という形態が一般的です。コーポラティブ・ハウスを選択した多くの人たちはお互いに顔見知りの間柄なので、お互い理解して信じて見守る、無理強いしないコミュニティーを作る事が出来るというのが最も大きなメリットに挙げられます。

 

コーポラティブ・ハウスは、実際に入居する人たちが直接集まり、協議を通じて全ての段階を進行させます。入居前から隣人同士の連帯関係が形成され、様々な年齢層が自然と交流を深めていきます。全体的な計画の枠の中で、本人と家族が目指しているライフスタイルを反映した家を設計することも出来ます。戸建て住宅という形で建てる場合、工法や資材の選択において共通の仕様が多くなれば『団体割引』で建築費を抑えられる可能性も高くなります。また協同組合が発注者となるプロジェクトなので、業者のマージン、分譲広告などの経費などが抜け、一般的な分譲住宅よりは価格が安くなる可能性も多分にあります。

しかしコーポラティブ・ハウスの場合は、組合員の募集から入居まで平均して二年ほどの時間が掛かります。段階ごとに協議を重ねて結論を導き出すまで、たゆまない努力と時間を投資しなければなりません。初期の段階からお互いにどれだけ良好な関係を作り上げる事が出来るか、それが成功のカギだと言えるでしょう。

 

コーポラティブ・ハウスが「家造りの方法」と言えるとしたら、コレクティブ・ハウス(collective house)とは「新しい家の構成と暮らしの方法論」だと言えるんじゃないかと思います。この二つのコンセプトはお互いに相反するものではなく、並立する事が出来るコンセプトです。つまり「コーポラティブ方式で建てたコレクティブ・ハウス」という暮らし方も成り立ちうるという事です。

 

コレクティブ・ハウスのコンセプトは次の様なものです。個人や家族の為のプライベートな空間(ベッドルーム・バスルーム・トイレ・ミニ・キッチン等)どは各世帯の「専用スペース部分」に別途に存在するけれど、リビングやキッチン、ダイニング、洗濯室、そして子供たちの遊び部屋や託児室等は「共用スペース部分」にするといった方式です。血縁関係の無い人たちが一緒に暮らすという面では、コレクティブ・ハウスとシェアハウスは似たようなコンセプトだとも言えるでしょう。しかし「隣人たちと一緒に一つの建物の中で共同生活をしよう」と既存の建物を活用したのがシェアハウスの始まりだったとすれば、「隣人と一緒に暮らす為には家の形や構成がどうあるべきか」を最初からもう一度悩んで考案されたのが、即ちコレクティブ・ハウスなのです。

コレクティブ・ハウスはスウェーデンで始まり、若い共働きの夫婦と独り暮らしの老齢人口が増加していくという流れの中で、様々な年齢層で構成された入居者たちがお互いに役割を分担し、時間的、金銭的な負担を軽減させながら共同生活を営んでいます。食材の購入や食事の準備、後かたづけは勿論の事、家の管理と修理、育児、病人への看病まで「お互いに助け合う隣人としての相互補完的な役割と関係」を創り上げていくんです。小さな子供を育てている共働きの夫婦は、同居しているお年寄りたちに育児を任せる事が出来るので、突然の残業にも動揺する必要がなくなります。お年寄りの方たちは、病気の時や力仕事をしなければならない時に、若い世代の手助けを受ける事が出来るので心配の種が減ります。このような暮らし方は見方によれば、お互いに『自分の技能や能力を無償で寄付する事』を生活の一部とする暮らしだとも言えます。コレクティブ・ハウスでの生活が安定的に維持される為に最も大切なのは、全ての構成員たちの平等な関係と公平な参加だと言えます。手に入れられるメリットに眼がくらんで『ただ乗り』をしようとする構成員がいると、この暮らし方はおのずから崩れ去るしかありません。ですからコレクティブ・ハウスが成功する為には、構成員各自のレベルの高い自覚が何よりも求められると言えるでしょう。

 

人類の歴史が始まって以来、私たちは着るもの、食べるものについての悩み事と一緒に『住む場所の問題』即ち、どこでどうやって生きればよいのか、どうすれば幸せに、上手に生きられるのかという悩み事を抱えて生きて来ました。しかしこの『永遠の宿題』の答えは、一つと決まっている訳じゃありません。社会制度とシステム、インフラや政治、教育などの数多くの要素が、お互いに影響を与え影響を受けながら、その折々に変化を続けるのです。私たちはそんな現実の中から、我慢強く新しい正解を探し続けなければならないのです。

 

「私たちは建物を創り出し、その次には建物が私たちを創っていく」

Sir Winston Leonard Spencer Churchill, 1874-1965

建築が造ってしまった隣人のいない暮らし【2014年10月号掲載】のあとがき

このコラムを読んでも日本に住んでいる方には実感が湧かないと思います。日本の感覚では「そんなに挨拶をしない訳無いじゃない」と思うでしょう。でも本当なんです。向かいの部屋の住人と偶然顔を合わせても、横目でチラッと見て終わり。それが韓国の流儀です。不必要に他人と関りを持つのが怖いご時世ではありますが、そんな社会で長い間過ごして来ました。

そんな経験を持っている私からすると、日本の社会はまだまだ捨てたもんじゃありません。目を合わせて挨拶をする機会が多い社会です。同じマンションの人たち、横断歩道を渡って行く人たち(特に小中学生)、道を譲ってあげたり、譲ってあげたりした相手の車のドライバーさんたち、みんなが挨拶してくれます。それはとても素敵な社会だと思います。以前佐賀県唐津に旅行した時、妻と一緒に唐津城の近所を歩いていた時の事です。その地域の高校生と思われる学生さんたちが、一人の例外もなく「こんにちは~」って声を出して挨拶をしてくれたんです。(それぞれ別のグループが5回ほど) 本当に気持ちの良い体験でした。

それから「社会的な関係が音を別のものにする」という言葉。別の言葉に言い換えると「あなたの認識で音は違って聞こえる」という事です。だから訳の分からない騒音も、何の音かな? どうしてこんな音がするのかな?って事を少し理解してみると、ちょっと「五月蠅くなく」聞こえる筈です。

このコラムで「中間領域」という単語を使っていますが、建築の世界で一般的に使用する意味よりは遥かに広い意味で使っています。一般的には家の内と外の「中間領域」という意味で使用する概念です。今回は意図的に使っているので、理解の程をお願いします。

(何故か、このあとがきをコラムをポストしてから73日後に書いています)

 

建築が造ってしまった隣人のいない暮らし【2014年10月号掲載】

私は韓国に来る以前にはマンションというものに住んだことがありませんでした。 五歳の時から平均的な大きさの一戸建ての住宅に住んでいましたし、私の母親は今でもその家に住んでいます。私が住んでいたその町は数百年前からある、とても平凡な日本の地方都市です。

幼かった頃の私には沢山の「ご近所さん」がいました。小学校の通学班で一緒だった友だちの両親だけでなく近所の大抵の大人たちは、私がどこの家の次男坊なのか知っていて、私はそんな近所の大人たちに自然と挨拶をして育ちました。その町を離れてから三十年近く経った今でも「ご近所さん」は懐かしそうに挨拶をしてくれて、私が幼かった頃の思い出話をしてくれます。今この歳になっても私が暮らしたその町と「ご近所さん」は、私の幼かった頃を形取っていた大切な一部分だった事には間違いありません。

 

韓国に来て初めてマンションというもので暮らし始めました。私はマンションという『住み方』に長い間馴染めませんでした。五階建ての建物に階段のシャフトが二つ、それぞれのシャフトの両側にそれぞれの世帯が配置されていたので各棟に二十世帯が住んでいた訳です。しかしどれだけ時間が経っても、私はマンションの同じ棟に住んでいる人たちと仲良くなれませんでした。隣人として挨拶する機会も無かったし、誰が何号の家の旦那さんで誰が何号の家の息子なのか、知る手立てもありませんでした。私は知り合いが一人もいない建物の中で、彼らと一緒に生活をしていました。

 

固く閉ざされた他人の家の玄関のドアを叩いたり、呼び鈴を押したりするのは難しい事です。しかし子供の背丈ぐらいの塀を間にして挨拶を交わすのは簡単です。そんな挨拶を繰り返しながら接していたある日、互いに自己紹介をして近所付き合いが始まります。人と人がお互いを知り仲良くなる契機は「目を合わせること」なんです。よく「人間は社会的な動物」だと言いますが、この「社会的」な行為が即ち「目を合わせること」なんです。

 

海外旅行をしていると、韓国社会との明白な違いを感じることがあります。外国で現地の人や旅行者と偶然出会った時、彼らは私と目を合わせとっても自然な表情で微笑んできます。彼らにとってそれは一つの習慣、日常生活の一部なんだろうなと思います。果たして私たちの社会はどうでしょうか? 私たちが知らない誰かと最後に会話をしたのは何時だったでしょうか? 自分や家族のバウンダリー(領域)を脅かす存在を門前払いする時でなく、会社の同僚や取引先との仕事上の会話でもなく、フード・デリバリーや宅配便を受け取る時でもなく、果たして私たちは誰かと隣人として接したり、社会的な存在として生きたりしてはいるのでしょうか?

 

こんな社会性の没落には、私たちを取り囲んでいる「建物」という器にも、ある程度の原因があるんじゃないかと思います。私たちの居住環境が、暮らしを窮屈で世知辛(せちがら)いものにしているんです。古びた住宅が密集した地域に行ってみると、塀の高さは二メーターを越えていて、塀の上面にはガラスの破片が埋め込まれています。マンションであれワンルームであれ、インターフォンの呼び出し音とモニターの画面だけを頼りにして全ての対応を済ませています。私たちは、自らが高すぎる壁を立てて「味方」と「味方以外」という二分法で世の中を判断しているんじゃないかと思うんです。そして「味方以外」の対象にはまるで関心が無く、批判的な態度で一貫するという傾向が段々と強くなっている気がします。こうやって自分と他人との間に確固とした線引きをする態度からは、『仲のいい隣人』という関係が成り立つ訳がありません。そんな他人同士が物理的な位置の関係、つまり「上の階の住人」と「下の階の住人」という関係で出会ってしまった時、そこには断絶と確執しか発生しないのです。

 

「社会的な関係が音を別のものにする」

こう言うと多くの人が怪訝(けげん)そうな顔をしますが、実際にそうなんです。上の階で駆け回る子供たちの足音や叫び声は、その物理的なボリュームが同じだとしても聞いてる人との関係によって全く違うものに聞こえるので、対応の仕方も全く違ってきます。自分の子供が二階で駆け回っているのなら、笑顔で「走っちゃ駄目だぞ」と言えば済む話だし、隣の家の息子チョルス1)が騒いでいるなら 「もう遅いから早く寝ような」と言い聞かせれば済むんです。では何故? 近頃は野球のバットを片手に持って階段を駆け上がるしか方法が無いのでしょうか?

1)チョルス:韓国では古典的でありふれた男子の名前。日本の感覚では「太郎」

 

今まで私たちは上下階の世帯間の騒音問題に対して、その解決の為に「防音基準を厳格化する」というハードウェア的な観点からの対応だけをしてきました。本当に大切な隣人との「関係の回復とコミュニケーション」は無視したまま。そんな訳で今私たちの社会には、建築業界で言うところの「中間領域」というものがとっても切実に求められているんです。

「私はこういう者ですが、あなたはどんな方ですか?」

そうやって世間の人たちと目を合わせ、挨拶できる舞台が「中間領域」なんです。以前は庭とか路地裏とかが、そんな役割を果たしていました。中間領域は、幼い子供たちが人間関係を学び社会性を身に付けて、大人たちの世界にデビューできるようにしてくれる『登竜門』みたいな場所でもありました。見解の違う人たちと意見を交わすことも出来ず、自分の主張だけを振りかざす『コミュニケーション喪失の時代』なんて誰も望んでいません。今の世の中にはデジタル機器が溢(あふ)れかえっていますが、人間はアナログ的な感覚と感性そして社会性まで兼ね備えてこそ、生きて行ける存在なのです。だから、私たちが幸せに暮らしていく為にも中間領域を暮らしの中にもう一度復活させなきゃ、と思うんです。中間領域の集合体である「町」を復活させ一緒に暮らしていく隣人に出会うという作業は、今の現実の中でも幾らでも可能です。そしてそれは共同住宅でも充分に可能な作業なんです。

 

今日も私は、玄関のドアから出た瞬間から緊張します。「自分」と「他人」というラベルしか貼られていない切替スイッチのような『コミュニケーション喪失の時代』を乗り越えていく事を考えると、緊張せずには居られません。けれど絶対に諦めはしないつもりです。社会を支配しているデジタル的な二分法から脱け出すにはきっと時間が必要で、一瞬にして叶(かな)ったり、その結果を直接目で確認できたりするものではない、と覚悟はしています。しかし、そんな努力は今までも少しずつ続けられていたし、それなりに成功したケースもありました。そして、そういった努力は確実に今後も続くはずだと信じたいのです。

 

そしていつの日か、何の緊張感も無く玄関のドアを開けて外に出たら、お隣さんたちと目を合わせて挨拶をして笑顔で暮らしていける日が来ることを夢見ています。 来月号のコラムでは、隣人との「関係の回復とコミュニケーション」を通じて幸せな暮らしを創って行こうという幾つかのケースを紹介しようと思います。

POWER TO THE PEOPLE【2014年9月号掲載】のあとがき

最初に一つだけ。この原稿を書いたのは2014年の事ですから、今から10年近くも前の事です。その後、日本でも一時人気のあった「ソルビン」の様に二人前のような一人前を販売する「かき氷屋さん」も増えました。そんな時代が来る前に書いたコラムであると思って読んでもらえればと思います。

 

POWER TO THE PEOPLEというタイトルですが「民衆に力を」とかいう字面通りの意味で使った訳ではありません。「現在の建築業界の常識を作りあげてしまったのは、私たち自身なのかも知れません」という自戒の念と共に「私たちの力で変えて行きましょう」という気持ちで付けました。

 

ちなみに御存知の方も多いかと思いますが「POWER TO THE PEOPLE」というのはジョン・レノンの有名な曲の名前です。昨日は彼の43回目の命日でした。R.I.P

POWER TO THE PEOPLE【2014年9月号掲載】

数日前ソウル市内でクルマを運転していた時、とあるカフェの前にあったバナーを見て私は自分の目を疑いました。

「かき氷 一万二千ウォン」

 

「平均的な昼食代よりも高いかき氷を誰が食べるんだろう?」

「多分、店舗の賃貸料を値段にそのまま上乗せした価格なんだろう」

私は心の中でそう思いました。何はともあれ、それは私にとって『想像を絶する』価格でした。

海外では、このような『想像を絶する』価格を見つける事は簡単ではありません。それぞれの国に消費者が常識的に考えて受け入れられない「価格の上限」というものが明確に存在し、その価格を超えると売り上げが減少する事を、商売をする側も熟知しているからです。そんな観点から見て、韓国の多くの消費者は自らの権利、すなわち合理的な価格なのか判断し、その「価格の上限」を超えた製品に対して「購入を拒む権利」を放棄しているんじゃないかと思います。もしくは不満はあるけれど、止むを得ず受け入れているのかも知れません。

 

消費者の心の中に「価格の上限」が形成されて行く過程を考えると「韓国の消費者は『流行』とか『人気』とかいう実体の無い単語に寛大過ぎて、惑わされ過ぎているのでは?」と思わざるを得ません。例えばその店舗がチョンダム・ドン1)やソレ・マウル2)にあるというだけで、美味しくも無い料理のプレミアム価格を受け容れなければならない理由は一つも有りません。私たちには支払う金額に対して最高の満足感を求める権利があり、満足できない店を拒否する権利があるんです。それにカロス・キル3)に入り浸っているからとファッショニスタや特別な人になれる訳でもないし、高価なブランチを食べたからと言って格好いいニューヨーカーになれる訳でもないんです。その全てはいたずらな『イメージの消費』に過ぎません。にもかかわらず私たちの周りには、いたずらな消費を誘発する『からくり』が溢れかえっているんです。

1)チョンダム・ドン :  グッチ、ルイヴィトン、ロールスロイス等のショップ&ディーラーがある街

2)ソレ・マウル:別名「教授村」「フランス村」で呼ばれる高級住宅街

3)カロス・キル:若者向けのアパレルメーカーの旗艦店が立ち並ぶ通り。

 

こんな状況は食べ物とかファッションだけでなく、殆ど全ての品目で見受けられます。皆さんが多大な関心を持っている『家造り』の世界でも、いとも簡単に見受けられる現象です。勿論こういった『イメージの消費』の全てが悪いと言っている訳ではありません。しかし一方に偏った浪費をしてしまうと本当に必要なところに投資する機会と余力を失う事になります。供給のアンバランス、それがこの問題の核心なのです。

 

これまで多くの施主さんたちから頻繁に聞いた言葉があります。

「あのぉ、信頼できる施工業者を紹介してもらえませんか?」

そして彼らは「周囲の人たちが家なんて建てるな、と引き留めるんですよ」と心配そうな口調で言い、家を建てたことのある知人たちの失敗談と苦労話を語り始めます。そんな日常を繰り返していたある日、こんなアイデアが私の脳裏に浮かんできました。

「果たして、どこまでが事実なんだろう?」

施主さんたちは合理的な家造りを望んでいるのに、まともな業者がいなくてこんな状況が続いているのでしょうか? 何が真実なのでしょうか?

 

『一万二千ウォンのかき氷』のような『受け入れがたい』価格は、供給する側だけの問題ではなく消費する側にも問題があったから発生するのだと思います。いたずらな『イメージの消費』に偏った供給のアンバランスについても同様です。消費者が合理的に判断して自らの選択を行っているなら、非常識な業者たちは売り上げが伸びなくて結局は淘汰されてしまうはず。それが市場の基本原理である「需要と供給」の相関関係です。にも関わらず施工業者を信じる事が出来ない施主さんたちの声がこうにも聞えて来るのは、次のような「不都合な真実」を逆説的に証明しているのも同然なのです。

「今までの韓国の多くの施主さんは、合理的な『家造り』の道を選ばなかった」

「合理的な選択よりも、本人が聞きたい事を言ってくれて、わがままを聞いてくれる業者を選択する傾向が強かった」

「業者が言う事を信じたいという思いが強すぎるあまり、その内容をきちんと検証しようとする努力を疎かにして来た」

 

『家造り』の先輩たちが合理的な判断と選択によって「需要と供給」のバランスを保って来たなら、信頼出来ない施工業者に対する悪評と同じだけ、信頼出来て良心的な施工業者に対する噂話も皆さんの耳に入って来なければ異常なんです。

建築家や施工業者の中にも良心とプライドを持って、より良い家を設計し建てようとする人たちは存在しています。今までも「合理的な供給」の為の努力はちゃんと存在したんです。しかしそんな努力の殆どは不幸な事に、施主さんに対して大した説得力を持つことが出来ませんでした。そして反対に多くの施主さんの好みに合わせ、こんなセールス・トークを繰り返して来た業者たちが選ばれて来たんです。

「これが近頃の流行なんです」「やっぱり家を高級そうに見せたかったら…」

彼らに向かって「誰も選んでくれないけど、良心的な業者であれ」と強制する権利は、残念ですが誰にもありません。

 

私たちには「無駄な物でない、良い品物を手に入れたい」という「合理的な選択」に対する欲望があって、又その権利もあります。「一生の間に手に入れられる限られた財貨と時間を上手に活用しようという努力」のもう一つの名前が『暮らし』です。そして合理的な選択と消費を通じて「信頼できて満足できる需要と供給のバランスを創り上げていく」という作業は『ちゃんと生きてみる』と同義語だとも言えるんです。だから私たちは諦めずに努力を続けなければならないんです。

 

多くの人が「世の中は簡単には変わらない」と言います。そして「現実に合わせて生きなさい」とも言います。しかし考え方を少しだけ変えれば、世の中は意外と簡単に変わるんです。相手が変えてくれる待つのではなく、自分から変え始めればいいんです。今も社会はそうやって変化をしている過程にあり、今私たちが居るのはゴールじゃなくて通過点に過ぎないんです。施主さん自らが少しずつ変わり始め、そんな施主さんが増えれば増える程、この世の中は良くなって行きます。そうすれば合理的で信頼できる業者が世の中に溢れかえる事になり、「家造り」は今より一層簡単になると同時に、楽しくて幸せな作業になるはずです。

私たちが自らの権利を取り戻した瞬間、楽しい未来がやって来るんです。

貴方はどんな風に暮らしたいのか?【2014年8月号掲載】のあとがき

このコラムを読み返して、考えました。

「何でこんなテーマでコラムを書いたんだっけ?」

コラムの冒頭に書いた様に、一人の読者さんからDMを受け取ったから、とも言えます。しかし、それはただの「きっかけ」で、根底にあった思いは何だったっけ? そんな事を考えました。そして何となく思い出される節がありました。

『韓国という国で韓国人の施主さんを相手に住宅設計の仕事をしながら感じたモヤモヤとした気持ちを、こういう形でも表現したかったんだ』

 

殆どのクライアントの皆さんは、住宅の外装・内装・インテリア・家具のイメージや平面図など、雑誌メディアやオンラインで見つけた資料のスクラップを溜め込んで「充分に準備できた」と思い込みます。そして、その状態で設計を依頼しようとします。

「家の形はバウハウス・スタイルで平面は回遊同線、コンクリート造は健康に悪いって言う人が多いから木造にしたいんですけど…」

…こんな事を言いながら、二十枚を超えるイメージをサンプルで見せて来ます。けれど十中八九の割合で、それらは『実現不可能な要望』でした。まるで違う気候と敷地条件に建てられた『格好のいい家』そんなもの「絵に描いた餅」です。窓の配置と大きさ、屋根の形などは全て陽当たりの環境と密接な関係があります。そんな事を説明するとクライアントさんから返ってくる答えはいつも一緒でした。

「そんな事考えてもみなかった」

クライアントに接しながら感じる違和感(もしくは疑問)は積み重なって行きました。「本当は何を悩まなければならないかを知らない」「自分に必要なものも知らない」…そんな思いが募りました。そして思いました。「ちょっとは自分で考えて下さい」と。

 

最後に一言。

『人気商品』『おすすめ』『インスタ映え』そんな単語、糞食らえです。そんなもの『他人頼み』『他力本願』『見栄え自慢』を格好いい同義語と思って大丈夫です。

貴方はどんな風に暮らしたいのか?【2014年8月号掲載】

数日前、一人の読者からこんなDMを受け取りました。

「こんにちは。寄稿されたコラムを読んでから偶然にブログまで見つけ、いろんなポストを読ませて頂きました。今まで漠然としか考えていなかった我が家の『家造りの夢』が具体化できそうな気がしてワクワクしました。(中略) なにしろ門外漢なので、質問させて頂きます。我が家の『家造り』を前に、私は何から始めれば良いのでしょうか?

1.予算の確保? 2.家を建てる土地、地域を決める事? 

3.大体の間取りでもいいから考えてみる事? 4.その他?」

 

この質問に私は次のように返事をしました。

「これからどうやって暮らしたいのか、まず考えてみて下さい。『どんな生き方が幸せだろうか?』というテーマで家族と一緒に話し合い、悩んでみれば、その答えが見つかると思います」

こんな返答をしたのには理由があります。人々はそれぞれ考え方が違い、人それぞれ好みも違います。だから実際に生活しているライフスタイルも千差万別なのです。自分にとっての「幸せ」が何なのか、その答えをきちんと知りさえすれば『家造り』の出発は難しくないんです。

この連載の最初のコラムを書くに当たって「施主予備軍」の皆さんにどんな話を初めにしようか、ちょっと悩んで「イマジン、想像してみて下さい」というテーマを選びました。貴方に必要なもの、貴方によく似合うモノ、貴方を楽しくさせてくれる物、それが何なのかを考え、貴方だけのスタイルを探すのが大事なのだとも言いました。今回のコラムは、その延長線上にある話です。

 

果たして『いい家』とは何なのでしょうか?『いい家』を決定づけるモノサシは何なのでしょうか? 俗にいう『いい家』、人々の会話に出て来るこの単語が示すのは、大きくて立派で格好の良い、いわゆる『立派な家』じゃないかと思います。私たちのイメージする『いい家』とは多分、服に例えると華やかなシルクのパーティードレスだと思うんです。そのドレスを着ていれば自分がもっと格好良くなったみたいに感じられるし、他の人たちも「素敵だ」と褒めてくれるでしょう。ただ、華やかなパーティードレスを初めて着た時には満足感と喜びに溢れるかもしれませんが、次の瞬間、貴方はこんな悩み事に直面します。 

「この服着てどこに行こう? この服着て何しよう?」

そうなんです。貴方が華やかなドレスを着て頻繁にパーティーを楽しむライフスタイルの人でない限り、シルクのパーティードレスは『無用の長物』でしかありません。日常生活の中で「一番お気に入りのよく着る服」「いくら着ても飽きの来ない服」は別のものなんです。人々は長い間の経験と自らの好き嫌い、職業などを基準に「自分に似合う、気に入った服」をずっと探して服を着ています。それなのに何故、家を選択する時は無条件で『いい家』だけを想像し「自分に似合う家」を探さないのでしょうか? 

 

厳しい言い方かもしれませんが、本人にとって何の必要も無く、家族のライフスタイルにも似合わない家は『いい家』ではなくて、高いだけの『無用の長物』なんです。だから私は施主さんたちに、自分自身の幸せ、価値観、ライフスタイルを先ず探してみる事が大切だと勧めています。今までの人生と、これから生きていきたい人生の姿を思い浮かべ、その人生に「似合うもの」を中心に据えて計画を立てれば、残りの部分は自然と見当が付くものなんです。どこの土地がいいのか、どんな構造の家にすればいいのか、どれだけの予算が必要なのか、全ての答えが出るんです。

 

服を買う時、マネキン人形が着ている服をそのままセットで買ってくる人が、思ったより沢山います。試着をした時に店員さんに「お似合いですよ」と言われると、ただのお世辞だと知りながら、その服を買ってしまう人も沢山います。実は、この現象には心理学的な理由があると言います。

本人が『関心があるけど良く知らない』と思う分野において「何かを決定する」行動をする時、人々は恐怖心を感じると言います。様々なパターンを考慮した重大な選択を迫られる、いわゆる「責任を取らなければならない決定」を無意識の内に避けようとします。だから前もって用意された「人気商品」や専門家の助言にすがって「私が判断を間違えたんじゃない」と自らを弁護できる口実を探すんです。

こんな「何かを決定する」時の『無意識的な心理』からすると、私が施主さんたちに薦める方法論は余りにも負担が大きく、困惑させられる提案なのかも知れません。しかし『避けてしまう』という無意識から脱皮して『自分で考え、自分で選択する』という意図的な生き方を実践すれば、自らの人生の主人公になれるんです。そして、その喜びは何よりも大きなものなんです。

 

今この国(韓国)で『家造り』を夢見て計画している数多くの「施主予備軍」の方々の胸には、多分「より良い方向への変化」に対する渇望があるはずです。だからこそ『マンション』という生き方から抜け出し『戸建て住宅』という生き方を、意図的に選んだ筈なんです。そして、もし私の仮説が正しければ、あなたは既に「選択の岐路」に立っています。片方は、今まで通りに「あなたにはこんなものがお似合いです」と、あなたの背を押してくれる誰かの『おすすめ』をナビゲーション代わりに『付いて行く』世界に通じる門です。もう片方は『本人の責任なんだから、好きなように選択して』という世界、最初は「自分自身が何を望んでいるのか」を知る事さえが難しくて道に迷ってしまうかもしれない、そんな世界に通じる門なのです。

 

どちらか一方を選択したからと「成功する確率」が画期的に高くなったり、成功が保証される訳では、絶対にありません。しかしこの選択自体が、貴方にこう問いかけているのです。

「貴方はどんな風に暮らしたいのか?」

選択は、貴方次第です。