「スペック」が支配する世の中【2014年12月号掲載】

最近デジタルカメラを買い替えました。今まで使っていたものは十二年前に買った五百万画素の時代遅れのカメラでしたが、性能について不満はありませんでした。私にとって必要な機能は全て備わっていて、多分私はそのカメラの性能を百パーセント活用する事も出来ていなかったと思います。私がカメラを買い替えようと決めた理由はただ一つ、バッテリーの寿命でした。今年の初め頃から、きちんと充電さえ出来ない状態になってしまったからです。最初はバッテリーだけを新しく買おうと思ったんですが、余りにも古い機種なのでそれも不可能でした。そういう訳で、私は必要な条件に合う機種を検索し始め「丁度良い」カメラを発見しました。ところが思いも寄らない事が起こったんです。実物を直接確認してから買おうと、何軒かの店舗を巡ってみたのですが、どの店にもそのカメラの在庫が無かったのです。ある店長さんは私にこう訊ねました。

「何で、わざわざそのカメラを買いたいの? 総合的に判断すれば使い勝手が良いカメラではあるけど、画素数イメージセンサーのスペックが貧弱だから人気が無いんだよね。どの店にも置いてないと思うよ」

そのカメラが日本では、同じセグメントの製品の中で常にランキングの三位以内に入る人気商品だという事を知っていた私にとって、それは本当に怪訝な事件でした。

 

『スペック(spec)』とは元来、Specification(仕樣)という英単語を縮めた単語で「材料・製品・サービスが明確に満たさなければならない要求事項の集まり」という意味です。私たちが日常生活で自動車やコンピュータ、家電製品などを買うときに目にしている『スペック』という単語は、この本来の意味から拡大解釈されたもので「その製品が持っている規格や技術的な特徴など」という意味で世界中のどこでも広く使われています。『スペック』は私たちに、その製品が持っている様々な特徴や属性を簡単に理解させてくれます。その役割については誰も否定する事は出来ないでしょう。しかしその『スペック』が、私たちが買おうとしている製品の『本質』を代弁してくれる訳でもなく、その製品の特性が日常生活の中で「どれだけ使い勝手が良いのか」なんて誰にも分かりません。しかし世間はあなたに話しかけるでしょう。「このカメラは画素数がもっと多くてイメージセンサーがもっと大きい」「この車はエンジンの出力がもっと高くてホイールは19インチでオート・パーキングのオプションも付いている」と。そうやって私たちは世間に説得され、喜んでその製品を自らの所持品リストに追加しているんです。しかし実生活の中で、カメラで撮った写真を最大画素数が求められるほどのサイズでプリントアウトする事なんてまず在りません。車に関しても、より良い燃費と安楽な乗り心地に関心があるだけで、オート・パーキングの機能なんてものは死ぬまで一度も使わないままかも知れません。勿論私たち全員がそうだと断言する事は出来ませんが、世の中の多くの人々にとっては身につまされる話ではないでしょうか。

 

「数値がより大きい事が正義であり、何かもっと多くある事が立派な事だ」という何の根拠も無い盲目的な『信仰』が、韓国には存在しているのではないでしょうか?しかし、果たしてこの『信仰』は社会に本当に必要なもので、私たちの暮らしを幸せなものにしてくれるのでしょうか? いつの日からか私たちは『スペック』を、他人に説明しやすい一つの記号、あるいは本人の購入履歴を正当化する為の手っ取り早い理由にしているのではないでしょうか? 私たちは自らの手で『スペック』に根拠のない王冠を被せてしまったのです。

 

大きければ大きいほど良い家なのでしょうか? リビングの床材が大理石なら良い家なのでしょうか? 外壁がライムストーンで仕上げられていれば良い家なのでしょうか? 最高級の外国製シャッシを使っていれば良い家なのでしょうか? 気密度さえ高ければ良い家なのでしょうか? それとも有名なメーカーがプロデュースした高級タウンハウスなら良い家なのでしょうか? 庭に向かって壁一面に掃き出し窓が設置されていれば良い家なのでしょうか?  

そんな家は「見栄えのする家」あるいは「人に自慢し易い家」を簡単に造る為の方法に過ぎないんです。それよりも大切なものは幾らでもあります。最初からまともな設計、正しい断熱方式の選択、性能的に正しい資材の選択、正しくて正直な施工、こういった事がきちんと為されていなければ、幾ら『スペック』が立派な家であっても一瞬の内に暮らしにくい家、瑕疵だらけの家になってしまうんです。本当に良い家が欲しいのならば「自分と家族の使用用途に見合った、本当に必要なものは何だろうか?」ときちんと悩んでみる事が先なんです。それが本質なんです。

 

私たちは暮らしの中で「こんな事があったら良いな」「こんなものがあれば良いな」「こんなものが欲しいな」と考えます。それはいつでも楽しい想像なので、人として当然のことです。ですが、こういう想像には共通点があるんです。それは『足し算』の考え方だという点です。何かもっと沢山の、何かもっと良いものを探しているので、私たちはいつも『スペック』の前では弱者の立場に置かれてしまいます。

 

けれども私たちにとって本当に必要なものは、実は『足し算』ではなく『引き算』の思考を通じてこそ見つける事が出来るんです。砂の粒をふるいにかけ、その作業を繰り返した挙げ句一握りの砂金を見つける様に、私たちは自分自身の心の中で『引き算』を繰り返した果てに、それ以上捨てられない、本当に必要な『かけがえのないもの』が何なのかを知る事が出来るのです。ここまでコラムを読んだ人は、もしかしたらこんな疑問を持ったかも知れません。「足し算の家造りは無条件で悪い事なのか? 我慢して住む家が良い家だって事か?」そんなあなたに、私はこう答えます。

「引き算の果てに向かい合うその何かが、あなたの揺るぎの無いスタート地点なんです」

 

元来家というものは建てた瞬間に完成するものではなくて、私たちの暮らしと共に完成されて行くものなのです。家と庭の手入れをしながら、足りないものがあれば一つずつ手に入れていく日常は『暮らしの器』に過ぎなかった『ハウス』が「マイホーム=我が家」に変化していく過程なんです。そんな楽しさこそが、その家で暮らしながら感じる事が出来る「幸せ」であり、楽しい思い出として積み重ねられて行く事で私たちの人生を豊かなものにしてくれるはずなんです。